Writing Materials: 書く教材

ここでは、英語を書いて学習するための無料・有料の教材を紹介しています。

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英文を手で書いてみる

手を動かして英文を書き写すことも、
極めて効果的な学習方法のひとつである。

「音読」と同じように、ただひたすら書き写す。

英文を視覚だけで覚えるのではなく、
手を動かして書き写しながら動作記憶として
身体に覚え込ませる。

漢字を覚えるときに、
何回も何回も漢字を紙に書いてひとつひとつ
覚えた人が多いはずである。

目で見た文章を手を動かして書き写しているうちに、
知的記憶から動作記憶に置き換えられて自分の頭に入る。

朗読と筆写をすることにより、知識を内在化させ、
その繰り返しにより頭の中に英語を理解する回路が
徐々に出来上がってくる。

参考までに、洋画を英語の字幕で見て筆写するみるのも効果がある。
たとえば、
「The Shawshank Redemption (ショーシャンクの空に)」とか
「The Pursuit of Happyness (幸せのちから)」がオススメである。

はっきりしない文(断定しない文)

日本人は、はっきりしすぎた言い方、
断定的な言い方を避けようとする傾向が非常に強い。

たぶん、「ほかにも可能性があることを無視して自分の意見を読者におしつけるのは図々しい」と遠慮ぶかい考え方のためだろう。

ところがこれは、欧米の読者の大部分にとっては、
思いもつかぬ考え方なのである。

この日本式のゆかしさを解するには、
自分たちのふだんの考え方をスッパリり切りかえてかかるほかないが、
それは、たいていの欧米の読者にはできない相談だ。

著者が、自説のほかにもいくつかの考えがありうることを考慮して、
ぼかしたかたちで自分の見解を述べたとすると、
それを読んだ欧米の読者は、
著者の考えは不明確で支離滅裂(しりめつれつ)だと思う。

だから、いくらか不自然に思えても、できるかぎり明確な、
断定的な言い方をしたほうがいい。

自分の見解または結論に関してはっきりした、
具体的な保留条件がある場合には、(必要に応じて脚注を使って)
それを明瞭に述べるべきだ。

そうでない場合には、主張の強さをやわらげるようなことをしてはいけない。

日本人が使いたがる「~であろう」、「~と言ってよいのではないかと思われる」、
「~と見てもよい」等々の句を英語に翻訳することはまず見込みがない。

もし日本語で文章をつくってから英語に翻訳することが必要なら、
翻訳にかかる前に、最初の句を「~である」と書きかえ、
第2,第3の句はすっかり削ってしまうべきである。

ぼかさず明確に書く

英語の文章は、明確に書くこと、
あいまいな点を残さずに書くことが何よりも大切だ。

何事かを書くときに、多少ぼかしておく
-いわば余地を残しておく-ほうがいいと思う場合もあるかもしれない。

しかし、英語で書くときこれは許されない。
文を書くたびに「この文は正確にいうと何を意味するか」
と自問する。

もしこの問に答えられなければ、
その文は省いてしまうほうがよい。

同じように、it(またはwhichとかthisとか)と書くときには、
それが何を表すのかと自問すべきだ。

英文のなかのitは、いつでも、明確にこれと指摘できる何物かを表すべきであり、
しかもその<何物か>はそこまでの文章のなかにすでに記述してあるものでなければならない。

枝分かれしない文

日本語では、いくつかのことを書きならべるとき、
その内容や相互の関連がパラグラフ全体を読んであとではじめてわかる
-極端な場合には文章ぜんぶを読み終わってはじめてわかる-
ような書き方をすることが許される。

英語ではこれは許されない。

一つ一つの文は、読者がそこまでに読んだことだけによって
理解できるように書かなければならない。

また、英語では、一つの文に書いてあることと、
その次の文に書いてあることとの関係が、
読めば即座にわかるように書く必要がある。

たとえば、論述の主流から外れてわき道にはいるときには、
わき道にはいるところでそのことを明示しなければならない。

英語では、日本語の文章だとここは読者が自分でおぎなって読んでくれるだとうと
飛ばしてしまいそうなところでも、
くどいほど明白に考えの筋道を書く。

欧米の読者は、日本人の書いた英文をしばしば「墨絵のよう」だと評する。

自分で想像力をはたらかせて空間を埋めながら読まなければならないからである。

慣れていればそれほど困難はないとしても、英語国民はそういう読み方に不慣れだから、
墨絵的英文に接すると当惑してしまう。

目的を明確にした文を書く

たとえば、研究費申請のための申請書は、

1)その研究の狙いは何かを具体的に、明確にし、
2)自分がこれまでやってきたこと、これからの研究方針とを、
専門家が読めばその研究がうまくいく確率を評価できるように、
きちんと述べたものでなければならない。

一言でいえば、
その研究の価値と成功の可能性とに対する判断の資料を
提供するのが申請書の役割である。

はっきり言い切る

日本人は自分の考えともっと明確に言い切らなければならない。

世の中には、とくに実務の面では、
はっきり言わなければならない場面がたくさんある。

そういうときに相手のことを思って敢えて自分の考えを
言明しない言語習慣が、私たちの社会の風通しを悪くしている。

科学は冷たく澄んだ世界で、
そこではとことんまで突き詰めた
明確な表現が必要となるが、
私たちはとかく表現をぼかし、
断言を避けて問題を曖昧にし、
論争を不徹底にしてしまいがちである。

少なくとも会議の席では、
自分の考えを明確に主張する習慣を
確立したいものである。

「鮮明でない言葉はフランス語ではない」
という言葉があるが、日本語の場合、
「はっきりした表現は日本語ではない」
といえるのではないか。

たとえば、「5日間病気でした」を
「5日間ほど病気でした」と書く、
小説の人物の年齢なども、
「26、7歳」となっていて、
26歳とも27歳ともはっきり定められない。

こういう風土に育った私たちには、
折あるごとに「ぼかしことば」を挿入する言語習慣が
深く染みついていて、容易なことでは「はっきり言い切る」
文章は書けない。

しかし、こと理科系の仕事の文書に関するかぎり、
敢えて「日本語でない」日本語、明確な日本語を使うべきだ。

真正面から「はっきり言い切る」べきである。

断定しない文(あいまいな文)

英語にも主張をやわらげる叙述法はいろいろある。

Perhaps, probably, presumably,…
というような副詞もあるし、
would(やwill)を推量や遠慮の意を込めて使う可能性もある。

“It seems that …”
“I suppose…”
などという言い方もできる。

欧米人は、論説のなかで何事かを<言う>場合には、
日本語の「であろう」「と言ってよいのではないかと思われる」
「と見てよい」に相当する緩衝性のある表現は決して使わない。

だから、そういう場で使われる「であろう」は英語にならない。

形式的に翻訳してみたところで場違いな表現が誤解を招くだけだ。

ぼかし表現

ぼかし表現のなかで最も頻繁に出てくるのは、
「と思われる」「と考えられる」の2つである。

おそらくそれに対応して、英語の論文を書くとき
日本人の著者は、しばしば

“It is thought (believe) that…”

と書く。

ところが、

“It is thought (believe) that…”と書くときには
英語国人は、ほとんどすべての場合、
「自分には…と考えられる」というつもりではなく、
「人々は一般に…と考えている」というつもりなのである。

英訳論はともかくとして、「と思われる」「と考えられる」の
「れる」「られる」は、最終的な判断を相手に委ねて自分の
考えをぼかした言い方である。

理屈をいえば、「と思われる」けれども自分はそうは思わない。

「と考えられる」が自分の考えは違う、
という逃げの余地を残している。

はっきり言い切る、たてまえの文書では、
こういう曖昧な、責任回避的な表現は避けて、
「自分は…と思う」「…と考える」と書くべきである。

私たちは、無意識のうちに「ぼかしことば」を濫用する
習癖をもっている。

仕事の文書のなかでは、「ほぼ」「約」「ほど」「ぐらい」
「たぶん」「ような」「らしい」…の類をできるだけ削ることも
大切な心得のひとつだ。

ばかしことばを入れたくなるたびに、
それが本当に必要なのかを吟味する習慣をつけると、
文章はずっと明確になる。

主語が変わる「ねじれ文」

ここでは格の正しい文について述べる。

まずは、次の例文を読んでほしい。

例:

「われわれは蒸着膜の成長初期過程の研究に適した水晶振動小型膜厚計を考案・試作し、
その結果、蒸着実験において○○の周波数安定性がえられた。」

この文章の前半の主語は「われわれ」であるのに、
後半の主語は「周波数安定性」に変わってしまっている。

「考案・試作」というつなぎで方である以上、
当然、後半の主語も「われわれ」で一貫しなければならない。

すなわち、
「蒸着実験において○○周波数安定性を実現することに成功した」
と結ぶべきである(「その結果」はトルほうがいい)。

この例のように、一貫した主語で書くべきなのに途中で
主語が入れかわった文を「ねじれ文」という。

「ねじれ」は、英文その他の欧文ではとくに嫌われる。

短く書くコツ

仕事の文書の文は、短く、短くと心がけて書くべきである。

本質的な問題は文を頭から順々に読み下してそのまま
理解できるかどうかであって、
すらすらと文意が通じるように書けてさえいれば、
長さにこだわわらなくていい。

ただ、長い文はとかく読みかえさないと判らないものに
なりがちだから、「短く、短く」という心得がよい。

書くべきことが頭の中にびっしり詰まっているとき、
それを外に押し出して文章にするときには、
流れを冷静にコントロールする必要がある。

とりあえず、次の3つを心得る。

  1. 書きたいことを一つ一つ短い文にまとめる。
  2. それらを論理的にきちっとつないでいく。ここで「つなぐ」というのは必ずしも「つないで一つの文にする」意味ではない。短い独立の文を、相互の関係がはっきりわかるように整然と並べることができれば、むしろそのほうがいい。
  3. いつでも「その文の中で何が主語か」はっきり意識して書くことが必要だ。主語を文字に書き表すことは必ずしも必要でない。しかし、自分がいま書いている文では何が主語なのかはいつも明確に意識していなければならない。

とくに短い文をつないで長い文をつくるときには、
「長い文ぜんたいの主語を何にするか」を考えて、
修飾節の表現を調整していくことが大事になる。

意見を述べる対象を明示する

理科系の仕事で文書を書くときには、
事実と意見の書き分けが問題になる。

まずは、次の文章を読んでほしい。

「近頃の学生は整った文章を書く能力がないという声をよく聞くが、
私はこれは主に理科系の学生に関していわれていることだと思う。
理科系の学生がきちんと文章を書けないことに思議はない。
彼らの本領は文学ではないからである。」

第1文の「近頃の学生は整った文章を書く能力がない」は、
そのあとに続く「という声」が明示しているとおり、
判断-不特定の人の判断(意見)-である。

「そういう判断をよく聞く」は事実の記述だ。

第1文の後半はこの事実に対する「私」の判断(想像)を述べている。

これに続く第2文で「理科系の学生がきちんと文章を書けない」を
「(書けない)こと」と受けて事実の記述のかたちにしてしまったところに問題がある。

これは、第1文では判断、想像があたっているとして、
それに対して「ふしぎではない」と「私」の意見を述べるのだから、
次のように書くべきである。

「理科系の学生がきちんと文章を書けないとしても、(それに)不思議はない。」

意見の書き方の基本形にしたがえば、次のようになる。

「私は、理科系の学生がきちんと文章を書けないとしても、それに思議はないと思う。」

一つの意見(推論、判断、仮説、…)に対して意見を述べるときにはいつでも、
意見を述べる対象が事実ではなくて推論、判断、仮説、…であることを明示しなければならない。

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